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【浄土七高僧とは】
七高僧とは、親鸞聖人が浄土の真実の教えを伝えた祖師として選定された七人の高僧である。印度(天竺)の龍樹・天親、中国(震旦)の曇鸞・道綽・善導、日本(和朝)の源信・源空の七人である。親鸞聖人は『正信念仏偈』の依釈段および『高僧和讃』において、この七高僧の徳を讃嘆された。
七高僧が選ばれた条件として、第一に自ら阿弥陀さまの本願を信じ念仏に生きられたこと、第二に書物を残して阿弥陀さまの教えを広められていること、第三に本願力の救いが強調されていること、そして独自の法門発揮があることが挙げられる。
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【第一祖 龍樹菩薩】
南天竺 龍樹大士世に出でて
悉くよく有無の見を摧破せん
(正信偈)
■生没年:150年頃〜250年頃
■出身:南インド
■主要著作:『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論』
龍樹(ナーガールジュナ)は、2世紀にインドに生まれた大乗仏教の僧である。「空」の思想を確立し、中観派の祖とされる。後世「八宗の祖師」と称えられた。
龍樹は『十住毘婆沙論』において、仏道修行を「難行道」と「易行道」に分類した。難行道とは、自力による厳しい修行の道であり、陸路を歩むがごとく困難である。易行道とは、阿弥陀仏の本願を信じて念仏する道であり、水路を船で行くがごとく安楽である。
親鸞聖人は『正信偈』に「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽」と詠み、龍樹が難行と易行の二道を示して、信心をもって易行の道を勧められたことを讃えられた。
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【第二祖 天親菩薩】
天親菩薩論を造りて説かく
無礙光如来に帰命したてまつる
(正信偈)
■生没年:400年頃〜480年頃
■出身:ガンダーラ(現パキスタン北西部)
■主要著作:『浄土論』(往生論)『唯識三十頌』『唯識二十論』
天親(世親、ヴァスバンドゥ)は、4〜5世紀のインドの僧である。初め部派仏教を学び『倶舎論』を著したが、兄の無着(アサンガ)の勧めで大乗仏教に帰依した。唯識思想を体系化し、その著作の多さから「千部の論師」と称えられた。
天親の晩年の主著『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)は、『無量寿経』の注釈書であり、極楽浄土に往生するための行法として「五念門」(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向)を説いた。
親鸞聖人は、天親が一心に阿弥陀如来に帰命し、浄土に往生することを願われたことを讃え、五念門の功徳が名号に具わっていることを明らかにされた。
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【第三祖 曇鸞大師】
本師曇鸞は梁の天子
常に鸞の処に向ひて菩薩と礼したてまつる
(高僧和讃)
■生没年:476年〜542年
■出身:中国・雁門郡広武県(現山西省)
■主要著作:『往生論註』(浄土論註)『讃阿弥陀仏偈』
曇鸞は、中国・南北朝時代の僧であり、中国浄土教の開祖とされる。初め『涅槃経』や龍樹系の四論を学んだが、病に倒れ、不老長寿の術を求めて仙経を得た。しかし洛陽で菩提流支三蔵に出会い、「仏教にこそ不死の教えがある」と諭され、仙経を焼き捨てて浄土教に帰依した。
曇鸞の『往生論註』は、天親の『浄土論』に註解を加えたものであり、浄土教の根本聖典となった。この中で曇鸞は、衆生が浄土に往生する因と果のすべてが、如来の本願力回向、すなわち「他力」によることを明らかにした。「他力」という概念を浄土教において明確に定義したのは曇鸞である。
親鸞聖人は、自らの名「親鸞」に曇鸞の「鸞」の字を用いるほど曇鸞を敬慕し、他力回向の教えを継承・発展させた。『教行信証』には曇鸞の教えが随所に引用されている。
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【第四祖 道綽禅師】
道綽決して聖道を捨てて、ただ浄土の一門を開きたまふ
(正信偈)
■生没年:562年〜645年
■出身:中国・并州汶水県(現山西省)
■主要著作:『安楽集』
道綽は、中国・隋から唐にかけての僧である。初め『涅槃経』を学んでいたが、48歳の時、玄中寺にある曇鸞の碑文を見て感銘を受け、自力修行の道を捨てて浄土教に帰依した。以後、『観無量寿経』を200回以上講義し、日々七万遍の念仏を称えたという。
道綽は『安楽集』において、仏教を「聖道門」と「浄土門」の二門に分けた(聖浄二門判)。聖道門とは、この娑婆世界で悟りを開こうとする教えであり、浄土門とは、阿弥陀仏の浄土に往生して悟りを開く教えである。道綽は、末法の時代には聖道門によって悟りを得ることは困難であり、浄土門こそが唯一の救いの道であると説いた。
親鸞聖人は『正信偈』に「道綽決して聖道を捨てて」と詠み、道綽が聖道門を捨てて浄土門一筋に帰入されたことを讃えられた。
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【第五祖 善導大師】
善導独り仏の正意を明らかにせり
(正信偈)
■生没年:613年〜681年
■出身:中国・泗州夏丘県(現安徽省)または青州臨淄県(現山東省)
■主要著作:『観無量寿経疏』(観経疏)『往生礼讃偈』『法事讃』『般舟讃』『観念法門』(五部九巻)
善導は、中国・唐代の僧であり、中国浄土教の大成者である。幼くして出家し、『法華経』『維摩経』を学んだ後、各地を遍歴。641年に道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、645年に道綽が亡くなるまで薫陶を受けた。その後、終南山悟真寺で厳しい修行に励んだ。
善導の主著『観無量寿経疏』は、『観無量寿経』の註釈書であり、称名念仏を中心とする浄土思想を確立した。特に「六字釈」において、「南無」は帰命・発願回向の義、「阿弥陀仏」はその行であると解釈し、名号には願も行も具わっている(願行具足)ことを明らかにした。
法然上人は善導の『観経疏』を読んで専修念仏に目覚め、「偏に善導に依る」と述べた。親鸞聖人は『正信偈』に「善導独り仏の正意を明らかにせり」と讃え、善導が釈尊の真意を正しく明らかにされたことを称揚された。
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【第六祖 源信和尚】
源信広く一代の教を開きて、偏に安養に帰して一切を勧む
(正信偈)
■生没年:942年〜1017年(76歳)
■出身:大和国(現奈良県)北葛城郡当麻
■主要著作:『往生要集』『阿弥陀経略記』『横川法語』『一乗要決』
源信は、平安時代中期の天台宗の僧である。恵心僧都、横川僧都とも称される。9歳で比叡山に登り、良源(元三大師)に師事して天台教学を究めた。その名声を嫌い、比叡山の横川に隠棲した。
985年、44歳の時に『往生要集』を撰述した。これは日本における最初の本格的な浄土教の教義書であり、様々な経・論・釈より往生極楽に関する文を集め、厭離穢土(穢れた土を厭い離れる)・欣求浄土(浄土を願い求める)の精神を説いた。この書は貴族から庶民にまで広く読まれ、日本の浄土教発展の基盤となった。
源信は、念仏には「観想念仏」(仏を心に思い浮かべる)と「称名念仏」(仏の名を称える)があるとし、機根に応じて両方を勧めた。親鸞聖人は『正信偈』に「報化二土正しく弁立して、極重悪人ただ仏を称すべし」と詠み、源信が悪人こそ称名すべきことを示されたと讃えられた。
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【第七祖 法然上人】
本師源空は浄土宗を興して
選択本願を宣べひろむ
(正信偈)
■生没年:1133年〜1212年(80歳)
■出身:美作国久米(現岡山県久米郡久米南町)
■主要著作:『選択本願念仏集』(選択集)
法然(源空)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の僧であり、日本浄土宗の宗祖である。9歳の時に父を夜討で失い、その遺言により出家を志した。13歳で比叡山に登り、戒壇院で受戒。以後、比叡山の黒谷で修学に励んだ。
1175年、43歳の時、善導の『観経疏』の「一心に専ら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく」という一文に出会い、専修念仏に開眼した。以後、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えれば、身分や善悪を問わず誰でも浄土に往生できると説いた。
1198年、九条兼実の請いにより『選択本願念仏集』を著した。この書は浄土宗の根本聖典となった。しかし1207年、後鳥羽上皇により専修念仏が禁止され、法然は土佐(後に讃岐に変更)に流罪となった(建永の法難)。
親鸞聖人は1201年、29歳の時に法然上人に出会い、門下に入った。以後、生涯にわたり法然を「よきひと」「本師源空」と仰ぎ、師事できたことを最大の喜びとした。『教行信証』は法然の教えが正しいことを証明するために著されたものであり、言わば『選択集』の解説書である。
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【七高僧から親鸞聖人へ】
親鸞聖人は、本願念仏の教えが釈尊の時代から七高僧を経て、自らにまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられた。
七高僧は、それぞれの時代と地域において、お釈迦さまの説かれた真意を明らかにし、伝えてくださった。龍樹は易行道を示し、天親は浄土を願う一心を明らかにし、曇鸞は他力回向を説き、道綽は聖浄二門を判じ、善導は称名正定業を確立し、源信は日本に浄土教の礎を築き、法然は専修念仏を宣揚された。
親鸞聖人は、自らの名に天親の「親」と曇鸞の「鸞」を用いて「親鸞」と名乗り、七高僧への報恩の思いを表された。そして七高僧の教えを受け継ぎ、「信心」こそが往生の正因であることを明らかにされたのである。